春夏と高校野球の大会が中止になるという事態をめぐって、各メディアが大きく報道する。大きく報道されればされるほど、称賛も批判も上がってくる。「甲子園や高校野球が好きじゃない」という人も、普段はあまり聞こえない(聞いていない)こともあり、世の人々が抱くイメージをなんとなく感じた気がする。
●高校野球産業
この自粛期間、動画で過去の甲子園の試合を見ていた。改めて甲子園という場の力を感じる。シートノック・整備が終わり、集合、礼。ここで沸き起こる拍手。サイレンと共に第一球が投じられる。一挙一動に歓声が上がり、劣勢のチームが追い上げ始めると、唸り声のような音がする。「スタンドが揺れているように感じる」とか、「球場全体が相手を味方しているように感じた」など、甲子園という場がもつ力は、18歳の野球選手たちの技術にブレを生じさせる。「甲子園の魔物」というのは、集団心理が現れているんじゃないかと思っている。
どうしても疑問なのは、アマチュアスポーツの大会で入場料をとり、甲子園ではビールを販売し、各種メディアが大きく取り上げ発刊部数や数字取りに一役買っているにも関わらず、「教育として商業性を排除する」という高野連の姿勢が矛盾していることだ。甲子園のスタンドの様子は、「興行」の様だと私は思う。選手たちを観て感動を覚える方々もいるのだろうが、一方で彼らで利益を得ている方々も山程いる。そこを無視して、「教育だ」と言い続けるのは、もうやめてほしい。「高校野球産業」として成り立っているのは嬉しいことだし、注目度が高く、指導者も選手もやりがいが生まれる。しかしあまりにやっていることが矛盾していませんか、と思うわけである。
●指導者も産業の一部
そういいつつ、私自身も野球を教えてお金をもらっている部分があるので、「野球で利益を得ている人」であり「高校野球産業」のど真ん中にいる。実際野球選手のセカンドキャリアや進路選択の一つになる高校教員、高校野球の指導者。成り上がりたい指導者もたくさんいるわけだし、指導のみで生活できればいいが、そうではない人もたくさんいる。そのなかで、「甲子園」とはキャリアアップの手段である。高校野球はコーチが取り上げられることは少なく、監督が「甲子園〇〇回出場」などと説明されるので、甲子園出場は名刺代わりになる。現役時代に野球で成り上がれなかった人は、ある種再び成り上がる機会が与えられることになる。
甲子園ばかりが注目・評価され、輝かしい光を放っている。一方で、甲子園の光によって影となっているものもある。高校野球のコーチがそうであるし、控え選手、怪我をした選手。大人数のチームで試合には出られない選手。最小で年間3試合しか公式戦がなく、かつその公式戦にすら出られない選手が山程いるが、それでも「高校野球教育」は成功したモデルですか?
私は、残りの人生をつかって、この「甲子園主義」を変質させる一端を担いたいと思っている。多様化した社会であるからこそ、「多様化した高校野球」を求めてもよい。そうあるはずである。