実は私、弟子入りしていた期間があるんですよ。野球指導の弟子入りです。かつて教わった、それはそれは鬼みたいに怖い監督の元へ出向いて、指導のイロハを教わりにいきました。当時を思い出すと、「自分には選手としての才能はないが、指導者としてなら花を咲かせられる」なんて考えていたようなんです。しかしね、しこたま怒られましたよ。2年弱でしたが、本当によく怒られました。僕が気が利かなくて、不出来だったんです。その後加えて2年、そのチームに残りました。大学野球を指導した人、元プロの方、色んな方から学びました。合計4年間は、僕の指導者としての「修行期間」でした。
徒弟制度なんて、この時代は流行らないんですよね。残っているのは芸能分野だけでしょうか。伝統工芸品も跡継ぎがいない、なんて言われたりしています。少なくとも僕の身の回りに、「〇〇さんの弟子です」なんてものを聞くことはありません。堀江貴文さんは、寿司屋の徒弟制度をざっくり否定されておりました。なんでしょうね、一理あるよなうな、なんだか寂しいような気もします。
「マニュアル化してみんなが技術を習得する」「システムを構築して循環サイクルをつくる」とか、これはすごく大事なことだと思います。某ファーストフード店でアルバイトしていたときは、マニュアルやシステムの重要性を大いに学びました。それは組織として持つべきものだと想います。
日本史には「鑑真」という人が奈良時代に出てきます。鑑真さんは中国でめちゃくちゃ有名なお坊さんで、わざわざ失明しながらも日本にきてくださった方です。当時の日本が請うたことによって鑑真さんがいらっしゃったのですが、何をしにきたかといえば、「戒律」を伝えるために来ました。この「戒律」というのは、お坊さんとしての「証明書」みたいなもので、これをもらうと「オフィシャルお坊さん」になれます。中国のえらいお坊さん公認のお坊さん、みたいな。戒律をもらったお坊さんは、国家公務員的扱いでした。
奈良時代、税がかなりハードだったんですが、お坊さんになれば税がかからないことになってたんですね。だからみんな「私度僧」って言って、「自称お坊さん」みたいな人がたくさん出てきてしまったのです。ときの政府は戒律を授かった「オフィシャルお坊さん」を増やして、ちゃんとした仏教をやっている国にしたかったのです。かつ、税逃れの私度僧を駆逐したかったのです。そのために当時の中国のスーパースターである、鑑真さんにわざわざ来てもらったんです。
今令和の時代、この「私度僧」みたいな「自称〇〇」が溢れている世の中になっている気がするんですね。ぼくかて「自称野球ブロガー」ですし、「自称野球ツイッタラー」です。自称で本当にすごい人もいますよ、行基っていうカリスマ私度僧もいました。でも自称で本当にすごい人って1%じゃないですか。みんながみんなすごい、ってわけじゃないですよね。「〇〇風味の食べ物」って、風味はしますけど、所詮風味どまりで、本家を超えられない。
私は、「だれでも〇〇できる」時代だからこそ、然るべき場所や人に学び、然るべき資格や証書・証明・承認を受け、然るべき対象に力を発揮する、ことが望ましいと思っています。奈良時代だったら、絶対に戒律を授かって正式なお坊さんになったほうがいい。「自称医者です」という人を、どれだけ信じられますか。医師免許を捨て闇医者に転身した、という説明を受けても不信感はゼロにはならないと思います。
野球の勉強をするなら書店に並んでいるプロ野球選手の自伝を読むよりは、理論が体系化された運動学の本を読んだほうがいいです。しかし本を読むだけよりも、もう一度大学に通って講義を受けて学位をもらった方がいいです。色んな段階があるにせよ、「自分がよりオフィシャルに近いもの」を得ることって、その業界にとって非常に大事なことだと思いませんか。
子どものおままごとであればね、「ぼく〇〇になりたい!」と言ってなってもいいと思うんです。鑑真が授けてくださる戒律は、ある種の国家資格です。そこに普遍性と歴史が込められています。伝統芸能を世襲した人は、その芸能を創始してから世襲する日までの歴史を共に受け継ぎます。300年、400年という歴史を受け継ぐ場合もありますよね。
これだけ多様性と可能性に溢れているのだから、もっと高いところを目指す、より高いところに行くのであれば、「普遍性」と「歴史」を獲得する・もしくは証明・承認してもらう。なんかバラバラとしてしまいましたが、それがすごく大事な気がするんです。