「がんばる」ことを求める大人、「がんばる」とは何なんだろう?少なくとも、僕は毎日頑張って生きている。夏休みは朝から野球をやり、時に教員業務を行っている。2学期の授業の準備だってやっているし、野球と仕事以外の事柄も取り組んでいる。私は私なりに懸命に頑張っていきている。
僕が懸命に生きるということは、相手もまた懸命に生きているはずだ、ということ。本当は懸命でないかもしれない、手を抜いて生きているかもしれない。ハンバーガーを1個つくることであっても、それなりの本気でつくってくれているはず。ピクルスをハンバーガーに投げつけて遊んでいることは、きっとないはずなのである。しかし僕が思うのは、そんなことすらどうでもいい、ということ。何かに熱中している人は、何かに本気で取り組んでいる人は、余計なことに気を取れれない、そんな気がする。
自分と他人のものさしは、決定的に違う。一生懸命のものさしは、本気でやっているというものさしは違う。僕はグラウンドで黙って「一生懸命」選手を見ている。一方で「一生懸命」怒鳴っている人がいる。僕の尺度で言えば、僕は一生懸命だ。選手のプレイを見ながら、分析したり他の動きとトレースさせたり、「どんなアドバイスを送るべきか」を考えている。闇雲に言えばいいわけじゃない、タイミングがある、吸収できるように説明する必要がある。どうやって伝えるか、何を伝えるか、そもそも伝えるべきか、考えを聞くだけにしておこうか、と考えている。これが僕の一生懸命だ。はっきり言えば、グラウンドでの存在感はない。(と思う)。
目立ちたいという気持ちはあるが、それが先に出たら指導はできない。僕はそう思う。監督は違うが、コーチは目立たない。それがよいと思う。優れた技術は、透明なのだ。その選手に溶け込むような、色のついてないアドバイス。馴染みやすいアドバイス。そんなアドバイスをしたい。形を1からつくるのではない。今あるものを発展させていく。観察して、分析して、コツコツ声をかけていく。色のついていない言葉で、溶けやすい言葉で。選手との会話、対話。これが全て。