2020年3月24日火曜日

「育成システム」を考える 育成計画編


「育成システム」を考える 育成計画

文科省発表「運動部活動での指導のガイドライン」(以下ガイドライン)から抽出して、育成システムを考えてみたいと思います。今日は「育成計画」です。ガイドラインの内容をベースにしつつ、良さげなものを考えてみたいと思います。まずはエッセンスから。

エッセンス
①学校が運動部(部活動)全体の活動目標を設定する
②運動部長(運動部の教員のトップ的な)が目標設定をする
③運動部長が学校と交渉しながら環境整備をする
④各部が目標設定をし、そのためのプランニング(計画)を立てる。
⑤各部がある程度フォーマットの定まった評価方法によって評価を受ける
⑥プランと実際の差異、達成箇所と達成できない箇所を明確にし、次年度に活かす



①学校が運動部(部活動)全体の目標を設定する

ガイドラインでは運動部の活動を学校も関与していく必要性があると記述されていました。プロ野球でいう「球団」にあたる学校が、経営目標というか、部活動に対して目標(要望)を伝えます。「活動を頑張ってほしい」というよりは、「どの点を学校が評価をしていて、重点的に取り組んでほしいか」を各部に伝えていくということです。学校経営という観点で言えば、部活動は教育活動であるとともに、募集の一環です。もちろん各大会で成果を発揮してもらいますが、何が募集につながっているかを学校が分析し、要望を伝えることで学校と部活動が分離してしまうことがなくなると思います。文科省は、部活動運営が教員ありきではなく学校が関わっていくことで、管理職が部活動の実態を認知し、指導していく重要性を説いています。


②運動部長が目標設定をする

運動「部」ですから、部長がいて然るべきだと考えました。プロ野球でいう「GM」のような、各部の編成を担う役職があってもいいのかなと思います。名前がつかなくともそういった役割を担っている場合もあると思いますが、部活動全体のマネジメントの中心となり、実際に実態を把握し、指導していく立場の人です。各部種目が違うのでまたがるのは難しいとは思いますが、各部の取りまとめをすることで運動部方針が定まっていくはずです。


③運動部長が学校と交渉しながら環境整備をする

合わせて運動部長が学校側と交渉して環境整備を行っていきます。各部からヒアリングをして、必要な環境を整えていきます。運動部としてトレーナーを採用したり、スポーツドクターを招いたり、外部指導員を斡旋したり、セミナーや講習会の開催をしたり、、、、。学校の運動部の発展を各部に任せるのではなく、顧問のマネジメント・交渉能力に任せるのではなく、学校組織として強化をしていく。学校はアウトソーシングが苦手な傾向にありますが、専門性の高い人材が現場には必要です。「怪我なく部活動に励んでほしいので、トレーナーを雇います」「定期的にスポーツドクターに検診に来ていただき、怪我の状態を把握します」みたいなことでしょうか。全国探せば学校でトレーナーを雇っているところはあると思いますが・・・。

環境整備は今後多岐に渡って行われていくと思いますが、「現場の自助努力」だけでは絶対に変わりません。システムの構築が最優先です。あまり現実的ではないかもしれませんが、他の部と共同して何かを行っていく、というのは重要だと思います。


④各部が目標設定をし、プランニング(計画)する。

学校目標があり、運動部の目標・方針があり、各部の目標があります。本来親会社、大元が方針を定めた上で、各部がそれらに則って詳細な方針を決定していくべきです。目標は中期~長期によるもので、1年単位~5年単位で考えるべきかと。

ちなみにガイドラインでは「勝つことのみを目指すことのないよう、生徒が生涯にわたってスポーツに 親しむ基礎を育むこと、発達の段階に応じた心身の成長を促すことに十分留意した目標 や指導の方針の設定が必要です」とあります。スポーツなので、「勝つこと」を含めた上で、多義的に目標を定めるべきだと言っているわけです。


したがってガイドラインでは、
「ヒアリングをしてニーズを把握した上で」
「勝つこと」「楽しむための土台をつくる」「心身の発達」
を目標設定として掲げ、プランニングしていくことが大事だと言っています。またプランニングの際には「バランスのとれた活動に配慮する」とあり、休息・休養の必要性も述べています。


1年間程度の計画は「ピリオダイゼーション」と呼ばれます(複数年にかかることも指すようです)。
『スポーツ医科学辞典』によれば、
 準備期→専門的準備期→維持もしくは試合期→回復期
 に分けられるそうです。
 長時間の低強度のトレーニング活動から専門的な高強度で短時間の活動に変わる、とあります。また「オーバートレーニングを防止する助けにもなる」そうです。


どこがピークで、今何をやらなければならないのか。月々の、日々の活動は具体的に何をするのか。プレイヤーには日・週単位から年単位のプランを伝えておくべきだと考えます。また、見落としがちである「学校・保護者」にも最終的には「内容・ねらい・方法・時間」などを明記してまとめ、提示しておくことで、相互理解が深まるのではないかと考えられます。



⑤各部がある程度フォーマットの定まった評価方法によって評価を受ける

「計画」を立てたわけですから、評価をする必要があります。他競技は正直わかりませんが、野球を前提に考えてみたところ、

 「大会成績・練習試合成績・練習内容・時間・選手の技能の向上・身体能力の変化」

 を少なくとも学校では年単位で評価する必要があると思います。部活動単位であれば、本来はシーズンごと、年4~6回の評価は必要だろうと私は考えています。どんな能力の選手に、どんなねらいをもった指導をして、どんな結果が出たのか。それが夏の大会で1回戦敗退だったとしても、野球未経験者が通算15本のHRを打てるようになったとか、身体能力が大幅に向上したとか、プレイヤー自身を評価することができます。

また、部活動以外の活動や実績として
「学校の成績・進学実績・進学後の活動・慈善活動」なども評価対象であると考えています。


⑥プランと実際の差異、達成箇所と達成できない箇所を明確にし、次年度に活かす

最終的には、またそれを修正し、次年度に活かすことになります。データが蓄積されていけば、わかることが増えていきます。年々バージョンアップした指導を行えるようになりますよね。



育成計画を立てるということは、
→将来を想像すること
→プレイヤーの可能性を見つけ、育んでいくこと
→計画した以上は変更できない(他者の目がある、やるしかない)、ということ
→やるべきことが明確になること
→チームが一枚岩になれるということ

でもあります。
計画を立てるというのは簡単ではありませんし、知識もパワーも必要になります。しかしその場限りの指導にならないように、選手・チームを想像を活用してデザインしていく。やるべきことはまだまだありそうです。続きは後日。



2020年3月22日日曜日

「育成システム」を考える



「育成システムをつくろう」「選手の能力開発を行っていこう」と考えたのですが、何ごともはじめは真似するところからはじまります。モデルケースはなにかあるのかな、と思い探してみると、文科省が「運動部活動での指導のガイドライン」というものを平成25年に出しているではありませんか。
文科省 「運動部活動での指導のガイドライン」


大阪府桜宮高校の体罰問題が明るみになったことによって、国として部活指導の方向性を考える必要性が出たわけです。今でも体罰やっているところはあるでしょうし、パワハラ・人格否定を指導だと思っている方も少なくありません。どのカテゴリにもそういう方々はまだまだいるんでしょうね。


文科省は指導の充実のために必要と考えられる7つの事項を挙げています。さらにそれをギュッとギュッとして、私なりに解釈してみました(原文がみたい方は上記のリンクからどうぞ)。


①学校全体で部活動指導に取り組み(外部指導員など含めた環境)、育成計画をつくる
②科学的アプローチをとる
 データ集計や医学・科学的な知見も活用、トレーナーなども
③コミュニケーション方法を考える
 コーチング的な要素  選手の自主性を育む
④体罰・暴言をなくす
⑤指導者が学ぶ
 マネジメント・コミュニケーション・運動技術・ルール・審判
 心理・生理・栄養・休養・発達


ギュッとまとめて、こんな感じだと思うんですね。何事もそうですが、真似をするところからはじまるわけです。ただガイドラインはガイドラインなので、実際に自分が監督だったらどうやって取り組んでいくか、自分の考えをまとめてみようと思います。



平成30年には「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」というものが発表されています。実際学校・教員の仕事量が多く、過労状態にあると言われています。仕事の一つとして部活動がありますが、「部活動」自体がブラックの原因の一つとして、社会問題化している側面もあります。公立中学校の教員の方々で「部活指導しない」「顧問にならない」と言っている人たちも増えてきました。「ブラック部活動」なんて言われたり、顧問をやっているせいで時間がない、みたいな話もあったり。


もちろん私は部活動を肯定的にとらえてますし、野球の指導に取り組むことは私が心の底から楽しいと思えることでもあります。「土日休日なんて無いのが当たり前」ですが、それって異常なのかもしれない、と少し思います。僕は「物好き」というか「変態」ですし、むしろ「野球を教えたい」と思って教員をやっています。でもそれって全教員に当てはまるわけじゃないですよね。それを「無償で時間外までクラブをやってほしい」というのは筋が通らないかもしれません。ひとまず、まだ考える余地がある、ということで。また続きは後日。

2020年3月19日木曜日

選抜システムから育成システムへ


 

野球界に危機感を持つものの一人として、私も同様に「今のままで野球は生き残れるのか?」という疑問をいつも持っている。国民に愛され、成果を残し、たくさんの競技人口を抱えているなかで、もしかしたら今後消滅していくのかもしれない。野球が消滅していく未来は、もしかすると遠くない未来なのかもしれない。一人でも多く危機感を持って何かしらのアクションを取ることで、未来に影響を与えることができるはずだ。「バタフライ効果」のように、私達の小さな一歩が未来の大きな変革につながると信じている。革命はいつだって民衆の力が引き起こしているのだ。


今回のタイトルは、「選抜システムから育成システムへ」とした。従来の野球は「大量の練習を課し、それを乗り越えたものだけが試合に出場することができる」という、チーム内における選抜システムの側面が強かった。野球人口が減った現在では、それは通用しなくなりつつあるのではないか。「育成システム」が確立しているチームが、もっと多くなることが未来の野球界のためによいのではないか、むしろそうならないと日本の野球界は危ない。そんな気がしているのである。


◎選抜システムとは

練習は自分でやるもので(もちろん私も同意する部分もある)、試合に出られない選手は練習していない、練習についていけてない、能力が不足している。試合に出場できる選手は「ふるい落とし」に勝った選手で、体が丈夫で、怪我が少なく、感覚が優れている選手であった。100人の部員のなかで、固定された15名を1年間起用し続け、勝利に導く。他の85名は球拾いで、プレイすることができない。一度も公式戦を経験することなく、3年間で10打席も立つことなく、高校野球が終わる。

野球界に長く身を置いていると、こんな話を上の世代の方々から聞くことがある。団塊の世代・団塊の世代Jrなど、日本は人口が多い時代をこれまで過ごしてきた。人が多い時代において、この考え方は少しわかる気もする。「殴られて、罵声をあびせられて、それで強くなった」という話。アスリートファーストがスポーツ界の常識になりつつある昨今、是非は言わずもがななのかもしれない。実際「野球を選ばない」「他競技を選ぶ」ようになった子どもたちが多いという事実からわかることは、野球はもはや「日本スポーツの横綱」ではないのかもしれない、ということだ。手放しで子どもが集まると思ったら大間違い、なのである。


◎供給システム

私が日頃高校野球界に身をおいて感じるのは、「変革の難しさ」である。選抜システムといってもピンキリで、ハードにやっているところもあれば、ソフトなところもある。しかし選抜システムを遂行している指導者たちが、根底には同様の思想を持ち合わせていることが多い。現場ではハードかソフトかいかにせよ、選抜システム、ふるい落としの野球を経験しており、その経験に基づいて指導観を形成している。


プレイヤー中~上位層においては、小・中・高・大・社とふるい落としを何度も経験し、そのたびに勝ち進んできた。強豪が強豪たる所以なのは、「下のカテゴリにおける、ふるい落としで残った選手を獲得し、さらに自カテゴリでふるい落としにかけ、残った選手で闘う」のである。強豪校・チームは選手供給のパイプラインが必ず存在している。かんたんに言えば「うまいやつはずっと上手いチームにいる」ので、「強い高校はたいてい強い」し、弱い高校から抜け出すのは簡単ではない。そしてOBが指導者として戻ってくる、監督が内部昇格する。また同じ連鎖が起こる。これが「カテゴリの固定化」である。この状況がある限り、高校野球界の変革は難航するのではないか、と思っている。ちなみに私自身は中位のプレイヤーだが、とあるパイプラインによって仕事を獲得しており、その恩恵を受けている。


◎カテゴリの固定化現象と戦力均衡

「カテゴリの固定化」現象は、「適正な勝負が行われる」という意味では悪いことではない。大学野球でも1部リーグと3部リーグ、ここには選手の熱量も技術も差があるだろう。「野球をやってきた」選手と「プロを目指してやってきた」選手、勝負として成り立つ可能性はあるが、リーグ戦として観たときに面白みに欠けるかもしれない。ジャイアント・キリングは勝負の面白さの一つだが、ヒリヒリするような接戦もスポーツの醍醐味である。東都1部が面白いとか、甲子園のベスト8はいい勝負が多いというのは、実力差が少ないからこそ、である。これはカテゴリがある程度固定化されるからこそで、戦力均衡状態で試合が行われるからこそ、である。


「カテゴリの固定化」によって、野球界でも棲み分けがなされることになる。リトルリーグと少年軟式、中学軟式やクラブチーム、大学・社会人、などは、ある程度の棲み分けが行われている。日本独自の軟式野球という文化は、入門編としてはありがたい。ローカル大会も多い小・中では出場機会に恵まれることもあるだろう(チームにもよるが)。


◎高校野球の危険性

ここで問題なのが高校野球で、全国の高校が一斉に大会に参加できてしまう。プロを目指している選手層のチームと、楽しく野球がしたい層のチームが対決する可能性がある(というが現実にそうなっている)。理念上の問題という以上に、怪我する可能性がある。大阪桐蔭高校の打者らの打球を通常に処理できる高校生は、ある程度の経験値を積んでいる選手でないと危険がつきまとう。シードやコールドという制度があるにせよ、「スポーツハラスメント」とも言える状態だと私は思う。



◎供給システムを変える

いまやコロナウイルスは、世界の産業に大ダメージを与えている。いまや「世界の工場」と呼ばれている中国で発症してしまったために、工場が軒並み停止した。生産されないということは、物資が流れてこない。モノがなければ売れない。物流の停止である。「適切な供給がなければ、人々は困る」ということだ。1973年にオイルショックで人々はトイレットペーパーを(何故か)買い漁ったが、それも原油価格の高騰が原因である。石油が「入手しにくい」状況になった。すなわち、「供給システムを変える」ことは、人々の動きに変化をもたらすわけだ。


したがって、「選抜システム」から「育成システム」への移行することが、今後の野球界、特に高校野球界では必要になる。強豪校でなくても野球が上手になる、大学で野球ができる、充実した3年間を送れる、野球を楽しめる。坊主じゃなくても野球ができる、とか、練習が週4日だけで他は勉強もできる、とか。いろんなスタイルが出てきてもいいと思う。


選手が野球を通じて成長を実感し、スタッフは選手を支え、大会で結果が出ようと出まいと(出たほうが望ましいような気もする)、充実した3年間を過ごすことができるチーム。「このチームで成長できた」と思えるチーム。そういったチームを、子どもたちは選ぶんだと思う。すでに「育成システム」を構築して実績を挙げている学校は存在しているし、数も増えてきて、認知度が高まっていると思う。私はそういった学校を応援しているし、私自身もそんなチームを今後つくっていきたいと考えている。


今はまだマイナーなチームかもしれないが、育成システムが中心となったチームがメジャーとなっていけば、子どもたちはそちらに流れる。暴力や罵倒されるチームに行くのは、それ以上になにか見返りがあるから。強くなれるとか、進路がいいとかなので、育成システムのチームがそのメリットを内包することができれば、選手の流通に変化が起こるはず。選手供給システムが変化してはじめて、強豪校側の変化が生じてくるはずなのである。



◎結論

育成システムを構築することで、選手供給システムを変えることができる。それが高校野球の変革につながるのではないか、と仮定している。もちろん医療関係・トレーニング関係の専門家の知見も、同時に必要になる。むしろ「育成システム」を構築する側にとって、理論的根拠は不可欠である。考える余地は十分にあるので、どうやったら野球界のためになるのかを検討していきたい。




2020年3月16日月曜日

ブログを書く、ということ。


 ブログを書くという行為自体が久しぶりすぎて、どう書き出していいかわからないが、とりあえず文字を打ち始めてみようと思う。しばらくブログを書いていなかったのだが、「書けなかった」し、「書くことがなかった、書くに及ばすであった」という理由がある。「サボっていた」というがシンプルでわかりやすいのだが、やはり何かを生み出すのにはすごく時間がかかる。いわゆる「産みの苦しみ」である。作家や芸術家、「クリエイト」する人が、そういった苦しみを感じることがあるらしい。しかしその方々と同じような苦しみを持っている、というのはおこがましい。たかがブログごときで、「文章書くのは苦しい!作家もそういう苦しむことがある!」というは、ちゃんちゃらおかしい話である。


 ひとまず整理すると、最後にブログを書いたのは昨年の10月、継続して書き続けていたのは8月下旬まで。そこからまた空いて、3月まで遡る。半年間で5本の記事しか書いていない。記事を書くにはどれくらいかかるだろうか?30分そこらで仕上がることもあれば、2時間ほど頭を捻って書くこともある。散文的にタイピングすることもあれば、ノートにまとめて記事に仕上げることもある。テーマを決めて打ち始めるときもあれば、あれこれ調べてまとめることもある。普通に考えれば「ブログ」なのだから、何でもいいわけで、そこにあれこれ理由をつけて書かないだけのこと。そうなのかもしれない。

 
 どうでもいい話はさておき、ブログを書き渋っていたのは、「書くに及ばずだった」というのが一番である。実を言うと、私はいつも焦っている。追われているような、焦燥感がある。自分の周囲は野球で結果を出し、やりたいこと、やるべきことをやっている(ように見える)。「隣の芝生は青く見える」ので、どうしてもよく見えてしまう。それに引き換え自分はどうなんだ?現状に文句をいい、大した努力もしないで前進していないのではないか。それなのに、ペラペラとブログやTwitterでは饒舌に語り、欠片ほどのよい部分をさも本体のように見せ、進歩しているように見せかけている。そんな自分に辟易した。だからTwitter含めブログなどでも発信を控え、自分を見つめ直す時間に充て、研鑽に努めようと思った。それがちょうど1年前ぐらいだ。


 その1年のなかで、ひとつわかったことがある。ブログを書く行為は、僕にとって重要な思索活動であった、ということだ。物事を客観視し、深く捉え、自分なりの視点を見つける作業、これが僕にとって重要であった。自分との自己対話、自己の深層と向き合い、眠っているものを呼び覚ますことであった。「重要な思索活動」がなかった1年は、なんとも自分の発言の軽いこと。いや、その前だって軽かったのかもしれない。でも自分として、重さを感じなかった。言葉に魂がなかった。

 文章を書くということは、ある意味、「山に登る」ことでもあるし、「海に潜る」ことでもあるし、「穴を掘る」ことでもある。1年前の自分は、色々山を登った結果、次に登る山を見失っていた。「山」に登ったフリをして、近所の裏山で登ったフリをしていた、そんな気がする。


 書かない間は、とても身軽だった。言葉に魂は宿らなくなった。しかしその代わりに、世界を広げることができた。映画を観て、歴史に触れ、教員を理解し、本を読み漁り、世の中の広さを知った。知らないことがたくさんあり、登るべき山を見つけることができた。僕は「野球」という山に登っていたが、まだ小さい野球の山だった。面白い映画はやまほどあるし、歴史の奥深さと不完全性を僕は知らなかった。深く掘らないからこそ、いろんなものを観て回ることができた。自分にとって何が必要で、何が必要でないかを少し理解することができた。同時に、教員としての力を養うことが結果的に野球にもつながってくると理解した。


 ひたすら掘り返す時間と、地図を広げていく時間。これは共に必要なのかもしれない。必要だと感じたから、そういった行動をとったのだと思う。生まれ変わったわけではなく、より広い視野のなかで野球を捉えられるようになる、はずだ。いろんなところを歩いていく中で拾ったものを、自分に蓄えたものを、少しずつ落としていく。拾った種を、ゆっくり育てていく。見識を広め、深い思索を行い、研鑽を重ね、内面を磨いていく。この作業の繰り返しが、自分が監督になったときにきっとよいチームを作る土台になるはずである。


8月11日 東北学院vs愛工大名電

 8月11日 東北学院vs愛工大名電 5-3 東北学院〇 かんたんなまとめ:初出場の東北学院が優勝候補の名電を撃破。 140キロトリオと激戦区を勝ち抜いてきた名電だったが、東北学院伊東投手の前になかなか点を取ることができない。初出場かつ新聞記事C評価の東北学院、投打がかみ合い長打...