ブログを書くという行為自体が久しぶりすぎて、どう書き出していいかわからないが、とりあえず文字を打ち始めてみようと思う。しばらくブログを書いていなかったのだが、「書けなかった」し、「書くことがなかった、書くに及ばすであった」という理由がある。「サボっていた」というがシンプルでわかりやすいのだが、やはり何かを生み出すのにはすごく時間がかかる。いわゆる「産みの苦しみ」である。作家や芸術家、「クリエイト」する人が、そういった苦しみを感じることがあるらしい。しかしその方々と同じような苦しみを持っている、というのはおこがましい。たかがブログごときで、「文章書くのは苦しい!作家もそういう苦しむことがある!」というは、ちゃんちゃらおかしい話である。
ひとまず整理すると、最後にブログを書いたのは昨年の10月、継続して書き続けていたのは8月下旬まで。そこからまた空いて、3月まで遡る。半年間で5本の記事しか書いていない。記事を書くにはどれくらいかかるだろうか?30分そこらで仕上がることもあれば、2時間ほど頭を捻って書くこともある。散文的にタイピングすることもあれば、ノートにまとめて記事に仕上げることもある。テーマを決めて打ち始めるときもあれば、あれこれ調べてまとめることもある。普通に考えれば「ブログ」なのだから、何でもいいわけで、そこにあれこれ理由をつけて書かないだけのこと。そうなのかもしれない。
どうでもいい話はさておき、ブログを書き渋っていたのは、「書くに及ばずだった」というのが一番である。実を言うと、私はいつも焦っている。追われているような、焦燥感がある。自分の周囲は野球で結果を出し、やりたいこと、やるべきことをやっている(ように見える)。「隣の芝生は青く見える」ので、どうしてもよく見えてしまう。それに引き換え自分はどうなんだ?現状に文句をいい、大した努力もしないで前進していないのではないか。それなのに、ペラペラとブログやTwitterでは饒舌に語り、欠片ほどのよい部分をさも本体のように見せ、進歩しているように見せかけている。そんな自分に辟易した。だからTwitter含めブログなどでも発信を控え、自分を見つめ直す時間に充て、研鑽に努めようと思った。それがちょうど1年前ぐらいだ。
その1年のなかで、ひとつわかったことがある。ブログを書く行為は、僕にとって重要な思索活動であった、ということだ。物事を客観視し、深く捉え、自分なりの視点を見つける作業、これが僕にとって重要であった。自分との自己対話、自己の深層と向き合い、眠っているものを呼び覚ますことであった。「重要な思索活動」がなかった1年は、なんとも自分の発言の軽いこと。いや、その前だって軽かったのかもしれない。でも自分として、重さを感じなかった。言葉に魂がなかった。
文章を書くということは、ある意味、「山に登る」ことでもあるし、「海に潜る」ことでもあるし、「穴を掘る」ことでもある。1年前の自分は、色々山を登った結果、次に登る山を見失っていた。「山」に登ったフリをして、近所の裏山で登ったフリをしていた、そんな気がする。
書かない間は、とても身軽だった。言葉に魂は宿らなくなった。しかしその代わりに、世界を広げることができた。映画を観て、歴史に触れ、教員を理解し、本を読み漁り、世の中の広さを知った。知らないことがたくさんあり、登るべき山を見つけることができた。僕は「野球」という山に登っていたが、まだ小さい野球の山だった。面白い映画はやまほどあるし、歴史の奥深さと不完全性を僕は知らなかった。深く掘らないからこそ、いろんなものを観て回ることができた。自分にとって何が必要で、何が必要でないかを少し理解することができた。同時に、教員としての力を養うことが結果的に野球にもつながってくると理解した。
ひたすら掘り返す時間と、地図を広げていく時間。これは共に必要なのかもしれない。必要だと感じたから、そういった行動をとったのだと思う。生まれ変わったわけではなく、より広い視野のなかで野球を捉えられるようになる、はずだ。いろんなところを歩いていく中で拾ったものを、自分に蓄えたものを、少しずつ落としていく。拾った種を、ゆっくり育てていく。見識を広め、深い思索を行い、研鑽を重ね、内面を磨いていく。この作業の繰り返しが、自分が監督になったときにきっとよいチームを作る土台になるはずである。
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