「自立とは依存先を増やすこと」
とあることから、この熊谷さんの言葉を知りました。教育に関わるにあたっての、私のテーマである「自立」。そのキーワードが出てきたので、おもわず食いついてしまいました。
「自立」と「依存」は反対の言葉であるように思いますが、実はそうではないんですね。熊谷さんはいわゆる障害者であります。
引用:東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
端的にこれは階段やエレベーターといったツール面での話ではなく、「たくさんの人やものに助けてもらうこと=依存すること」という訓話です。我々が普通に生活できているのは、多くの人に依存(支えて)もらっているからですよね。障害者の方々は、依存先が限定されてしまう。苦しい生き方になってしまうのは、依存先が少ないから。
引用:実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。
♢学校という閉鎖的なコミュニティ
高校生にとっての依存先は、学校・クラス・クラブ・友達etc・・・。もっとあると思います。学校は朝から夕方まで机に座らせ、基礎学力の向上ために授業を受けます。その後クラブをし、帰宅をすることでしょう。夜にはご飯を食べて、少し宿題や予習をして、友達とラインをして寝る。クラブや友達とのラインは、コミュニティです。もちろんそれぞれ大事な要素です。そのなかで「自立」を考えたときに、新しいコミュニティや外に出ることをもっと増やしてもいいのではないか?と思いました。
♢自立するとは、大人になること。
歳を追うごとに、職場以外のコミュニティが生まれるようになりました。その本来関係のない人と会ったり、異分野の人の集まりに行ったりする機会があります。そうして、依存度合いが分散されていくような感覚があります。否が応でも分散されます。「家庭」「仕事」「友人」「趣味」などと、別れていくのだと思います。
では高校生であっても、こうした新しいコミュニティを持っていいのではないか?なにか新しい関係性をつくることはできないのだろうか?特定のなにかに集中せず、定期的に外へ出ていったほうがよいのではないか?私が掲げる「自立」は、どうもこの当たりにヒントがあるように思います。
そう考えると、結局ここにつながってきてしまうわけです。
http://takeda-baseball.blogspot.com/2018/12/forward72.html
0 件のコメント:
コメントを投稿